境内案内

志氐神社古墳 出土遺物

志氐神社古墳は、古墳時代前期に築造された北勢随一の前方後円墳です。培塚は7基あったと伝えられていますが、現在は1基残すのみです。社務所建築等により前方部は取り壊されていますが、椎の古樹が前端部にあたるとされています。1852年後円部の墳頂は発掘され、内行花文鏡、勾玉、管玉、車輪石などが出土しました。古墳の規模、出土品等からこの地の高貴な方の墳墓とみられ、一説には額田連(ぬかたのむらじ)の祖・意富伊賀都命(おういがつのみこと)の陵墓ともいわれています。四日市市内に残る唯一の前方後円墳として市指定記念物に、出土遺物は市指定有形文化財となっています。

狛犬

四日市市指定有形文化財。作者は明らかではありませんが、江戸時代後期のものとされます。美濃焼の一種で白釉が使われる志野焼の狛犬は、頭に宝珠をいただく変わった形で、頭の毛が深く先が曲がっていのが特徴です。そして阿・吽いずれも片足が折られています。伝承によると、神様のお守りをおろそかにして、神社の外に遊びに出かけないように足を折られて以来、志氐神社を守り続けているといわれます。成和殿内にございますのでご覧いただく際は社務所にてお声かけ下さい。

万葉集 歌碑

(おく)れにし (ひと)をしのはく 志氐(しで)(さき)
木綿(ゆふ)()りしでて さきくとそおもう

巻第六 一〇三一番  丹比家主真人(たじひのやかぬしのまひと)

後爾之 人乎思久 四泥能埼 木綿取之泥而 将徃跡其念

聖武天皇が天平12年(740)藤原広嗣の乱のとき、戦禍をさけて奈良の京をたち、一志郡の方より朝明、桑名と美濃の方に潜幸された際に、従者の丹比家(屋)主真人が詠まれた歌であるとされています。奈良の都に残した妻を恋しく思い、志氐神社の神様にお供えして妻の無事を祈った歌です。

妋石(みよといし)

東海道沿いの志氐神社一鳥居の傍に、道を隔てて妋石(みよといし)(夫婦石)があります。当社には伊邪那岐命・伊邪那美命の夫婦の神様が祀られており、古来より多くの村人や旅人はこの妋石をなでて縁結び・夫婦円満の願いを込めていたものです。また、昔の朝明郡と三重郡の標石とされていたとも伝わります。

神馬舎(しんめしゃ)

神馬とは神様が御乗りになる馬です。その神馬を納めるものが神馬舎です。古くは生馬を寄進された時代もありましたが、木彫りや銅像などでも奉納される場合があります。志氐神社の神馬は木造で、令和2年に修繕されました。
また、拝殿には黒い馬が描かれた大きな絵馬が掲げられています。縦約1.8m、横約3.2mの額に収められた桜の2枚板に描かれており、この地区最大級の絵馬と思われます。

妻恋稲荷神社(つまこいいなりじんじゃ)

御祭神
倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 日本武尊(やまとたけるのみこと) 弟橘田媛命(おとたちばなひめのみこと)

妻恋稲荷神社の本社は、東京都文京区妻恋町妻恋坂の高台に鎮座する妻恋神社です。日本武尊がご東征の時「吾妻者耶・・・」と恋い慕った故事から、妻恋明神と号されました。源頼義が奥州鎮圧のとき信仰したことや徳川家康・家光・慶善などの崇敬篤く関八州の稲荷の総司とも仰がれた名社であり江戸庶民の崇敬深く殊に「虫封じ」の祈願は有名で大正天皇が御幼少の折にも御祈祷を奉斎された光栄ある神社です。神社名の妻は日本武尊、恋は弟橘媛命、稲荷は倉稲魂命に由来します。
嘉永6年(1853年)志氐神社の神主森出雲守泰友の代に、この妻恋神社の御分霊を庭内にお祀りしたことが始まりです。昭和34年に志氐神社境内に遷座し奉りてより、篤志の方々の御奉仕により御神助を蒙る崇敬者が増して、商売繁昌・五穀豊穣・夫婦円満・家運隆昌の功あり当社の弥栄を寿ぐこととなっております。